「子どもへのまなざし」を読む 58 - かわいがり子育て

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「子どもへのまなざし」を読む 58

『思いやりは身近な人とともに育つ』 (続き)
 自分が幸せであることがだいじ
 それでは、幸せというのはどういうことなのか、おなじ条件、おなじ状
況であっても、幸せに思える人と思えない人がいます。あるいは、おなじ
ことにたいして、感謝のできる人とできない人がいるわけで、これが幸せ
だということはないのです。
 非常に健康で裕福でも不幸な人がいるし、体が病虚弱であって、経済的
に貧しくても幸福な人もいるわけです。ですから、私たちはなにを幸福に
感じ、なにを不満で不幸に感じるかというのは、なかなかむずかしいこと
でして、これは気持ちのもち方の問題です。でも、できることなら、私た
ちは幸せに感じていたいものです。
 幸せというのはどういうことなのかということを、私は自分でもときど
き考えますが、「幸せということは感謝ができること」であろうと思いま
す。あるいは、別の言い方をすれば、感謝の気持ちのない幸福というのは
ないと思うのです。ですから、日常的なとるにたらないようにみえるささ
いなこと、あるいは、きわめて平凡なこと、たとえば、ただ無事であるこ
とだけにも、感謝できるような気持ちがあれば、その人は幸せでいること
が多いでしょうね。そういうことだと思いますね。
 たいていの人には、非日常的な大きな喜びや幸福を感じる機会など、そ
うそうあるものではないと思います。私なんかの場合には、仕事から帰っ
お風呂がわいていますよと妻からいわれて、どうもありがとう
と、こういう気持ちです。ご飯を先にしますか、お風呂を先にしますか
と問われて、ささやかなことではあっても、ぜいたくなことだなという
ふうに感じ、そういう用意をしておいてくれた妻に感謝する。あるいは
謝できる状況が与えられていることに幸福を感じる、そういうことなのか
なと思います。
 やはり佐々木先生は、私からみれば別格だと思います。「ありがとう」はなんとか言うように努めていますが、佐々木先生の心境には程遠い。もっとも、佐々木先生と較べようなんてこと自体が不遜でした。
 現代社会は、ものの生産と消費の量によって文化の水準をはかろうとす
ような、愚かなことをやってきました。すなわち、私たちは、ものと欲
望をどんどん生み出すようなしくみに、ほんろうされ続けてきました。そ
して、いつも欲求不満でいるように操作され続けてきました満足すると
か、感謝するといった気持ちを失い続けてきました。ですから、日常的な
ささいなことに感謝することは、なかなかできなくなっていると思います。
 けれども、この感謝が本当に心からできるかどうかということは、日常
的な幸、不幸を決めるうえで、とてもだいじなことだろうと思います。そ
れは自分が幸せでなければ、なかなか感謝ができるものではありませんか
。あるいは、感謝ができるから幸せだとか、ニワトリと卵みたいなもの
で、どちらが先かむずかしい問題です。ただし、そういう気持ちをもつと
いうのは、ある程度、心がけて努力をしなければいけないのではないでし
ょうか。
 なにごともあたりまえに思っているようではいけないのです、たとえば、
お風呂なんて、蛇口をひねって自動点火のスインチさえいれておけば、お
湯はわくものなのだとか、家にいる者は、それくらいしておくのはあたり
まえなのだなんて思っていたら、仕事や外出から帰ってきてからの幸福感
も、小さなものになってしまうと思います。
 食事だって、毎日あたりまえだと思って食べているのと、用意してくれ
人に感謝しながら食べるのとでは、毎日毎日の幸せの程度がちがうこと
なります。そうなるでしょう。入浴後に下着を取り替えられること、そ
ほか毎日毎日、単調にくり返しているようにみえることでも、そのこと
たいして、私の場合でしたら、妻のたいへんな努力があるのです。そう
うことは、私や子どもたちにたいする気づかいとか、思いやりがあるか
できることなのです、これらはわずかなささやかな例ですが、毎日の生
のなかで、そのように単調にくり返されることにたいして、どれだけ新
な気持ちで感謝ができるのか、喜びを感じることができるのかというこ
が、とてもだいじなことのように思うのです。
 斎藤一人さんが、朝、眼が覚めて幸せ、手足が動いて幸せ、眼が見えて幸せ、息ができて幸せと感じられるような生活を送ることの大切さを、あちこちで説いていらっしゃると思いますが、同じことだと思います。
 幸せということは、物事に感謝できる、そういう喜びをもつということ
ですが、まず自分自身が幸せでなければ、子どもを幸せにすることなんか
できないのですね。幸福な人に育てられないで、子どもが幸福になるなん
てことは、ありえないと思います。ですから、子どもを育てることが喜び
であり、幸せであるという人に育てられる子どもは、本当に幸せだと思い
ます。
 今日も、子育ての学習会であるお母さんとお話をしていて、まったく同じような話がお母さんから出ました。「自分が幸せでなければ、子どもは幸せになれないんですよね」と。素敵なお母さんに出会いましたよ。
 そういえば、このお母さん、お姉さんから勧められて、この「子どもへのまなざし」を読んでいるとのことでした。嬉しい偶然です。
 保育園の保母さんは、本来、そういう人たちだと思います、そういう仕
事を職業として選んだのですから。そして母親になることを決意すること
も、おなじことだと思います。そして、さらに父親は、母親がそういう気
持ちで育児ができるように、いろんな援助や役割を果たすことに喜びを感
じられることが、本来の父親だと思います。その場合の役割や援助の内容
は、それぞれの夫婦が協調的に、自然に合意していればいいのです。
 こうでなければいけないという形はないかもしれませんが、私は子ども
が幼いときほど、母親の直接的役割が大きくて、父親の役割は、妻である
母親へは直接的であっても、子どもにたいしては間接的なものが多いのが
自然であると思います。長い間、多くの幼い子どもたちと出会い、観察し
てみて、本当にそう思うのです。
 ユーチューバーの鴨頭さんが、このことを「父親の役目は、子育てをしている母親を笑顔にすることだ」正確な表現ではないかも知れませんが、というようなことを言っています。お父さんが育児に協力してくれないと訴えるお母さんには、育児に協力するというのは、直接的でなくても、お母さんが気持ちよく子育てできるようにしてもらえれば、それで十分じゃないと、この話を借りて説明することがあります。
 幸せな人、思いやりのある人、感謝のできる人、ほかの人に共感できる
人、人の喜びを喜び、人の悲しみに悲しんであげられる、そういう人たち
のそばに子どもがいられるということは、大きな幸福でしょう。
 ですから、みなさんがそういうふうに、すこしずつ心がける必要があり
ます。日常生活のすごし方、あるいはいろんな物事に直面したときの感じ
方などです。そういうふうに感性を豊かにされることは、とてもたいせつ
なことのように思うのです。
 長い節でしたが、これでこの章は終わりです。お付き合い、ありがとうございます。続きます。よろしくお願いいたします。
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